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加賀田方面 画像をクリックすると大きくなります。
大矢船(おやぶね)
 −今は昔−
 天野山から日野を経て、山越えに大矢船にたどり着く。山路も定かでない。いつ来ても、わびしい山里だが、長野では私の一番好きな所。周囲から全く隔離されて、三軒の農家がやっと生計を保つにしても、この盆地は狭すぎる。春が来ると女の子がひとり入学するので、里の小学校への3kmの山路が、今から心配だと老婆は声を潜める。(ここは住宅団地に開発されて、絵の面影はない。ただバス停留所と橋にその名をとどめている。)
加賀田神社
 天見川と加賀田川の合流する三角台地に尾崎の集落があ理、加賀田神社はこの南の高台に鎮座している。尾崎から急な参道を登り切ったところに大鳥居があり、ここから参道の周辺は田畑が続く。こんな高い所に平坦な広い耕地があろうとは考えられなかった。古い絵図によると、たくさんの堂坊がが描かれているが、この平坦地はその宮寺の跡であったろう。極彩色の桧皮葺きの本殿と藁葺きの庫裏は、杜の茂みに調和してまことに美しく、田畑に立てられた藁のススキ(立木を芯木として藁を積み重ねたもの)は昔ながらの村の鎮守の風景だ。
矢伏観音
 加賀田側からイトーピア団地に入ると、団地の東崖の上、小高い雑木林の中に矢伏観音がまつられている。観音堂に隣り合わせて、赤い鳥居の奥にはお稲荷さんの社が見え、裏手にも小さな祠が並んでいる。 楠木正成が多聞丸といった幼年、観心寺の学問所から加賀田の大江時親邸に兵法を学びに通う道中、この観音にお詣りを欠かさない。ある日それを待ち伏せた俗が矢を射るのであるが、石造の観音様が身代わりして難を逃れたと書かれている。雑木林は明るく、右手の馬酔木の古木は見事で美しい。
唐久谷
 南海バス神納行きに乗って終点で下車。この道はまっすぐ行くと岩湧寺を経て岩湧山へ登るが、内見橋の手前を左へ折れると約500m、もうこれ以上は入れない海抜300mの谷あいに、戸数15の村がある。これが唐久谷である。4つの姓が12戸をしめ、村中親戚といった古い村である。ここから徒歩で、南へとれば山越で流谷へ、東へとれば地蔵寺を経て天見の清水に出る。写生は唐久谷も一番奥で、鼻つり地蔵のすぐ前からである。山峡の春たけなわ、せせらぎの音と小鳥の声だけ聞こえる。
鼻つり地蔵
 唐久谷の集落も一番奥まったところ、道のほとり、崖下に積んで、この花つり地蔵がまつられている。小さな祠は朽ちて、真っ赤な実をたわわにつけた南天に覆われ、大きなイタドリの枯れ木が祠に寄りかかっている。まるでオブジェを見ているようだ。この地蔵はここで自殺した花嫁の供養に建てられたという。その名の通りちんまりした天井鼻であった。以来、村の花嫁行列は地蔵の前をさけて通る。花嫁姿で地蔵の霊を刺激するとよくないことが起きるという。信心深い山里の伝説である。
 
大江時親邸
 加賀田の山里、少し斜面が開かれて、東向きに、時親の邸がある。現在の家も大和棟で古いのだが、だいぶ傷んでいる。土蔵の前のしだれ桜は、正成の手植えとも伝えられ、柿の木も古い。正成は少年の頃、時親について山岳での兵法を、この山中で実地に学び、後年、千早城を中心とした奇略で、寡兵よく大群を迎え撃ったのも、その兵法の活用というべきか。この静かなたたずまい、600年の時の流れを忘れさせる。
 
加賀田中の組
 最近の団地開発でとみに喧噪になった加賀田地区をすぎて岩湧街道をさらに進むと、昔ながらの集落が静かに息づいている。この中の組は南北朝時代の兵法家大江時親が隠棲した所である。岩湧街道は深い山峡を渓流に沿って進み、岩湧寺を経て岩湧山頂へ登る。次の集落は上の組(行事河原)といい、ここから左へはいると流谷を経て天見へ出る。前方に滝畑横谷の山が見え、左手奥に岩湧山の稜線が見える。猫の額のように狭い山間の平地は丹念に耕作されている。
水車小屋
 根号山系の河川には昔から水車が多い。しかし、時代とともに電力化されて、ほとんどその姿を消してしまった。山里の風物詩はここでもまた一つ消えていく。その残り少ない水車の一つを、岩湧街道で見つけた。(今はもう動いていない。)木製の大きな水車は朽ちてこけむし、ガタンゴトンと品詞の状態で回っていた。街道を跨ぐ樋は、昔は木製であったから、今時の季節なら、大きなつららがいっぱい垂れ下がっていたのである。売れ残ったか木の実は枝いっぱいに垂れている。シジュウガラの群れが梢から梢へ嵐のように渡っていった。
 
岩湧寺
 うっそうとした杉木立をぬって、岩道づたいに岩湧寺へとたどりついたところ、右手に古い寺の建物、左手に鳥居をいくつかならべて、岩から湧き出たように、竜臥堂の祠が見える。赤い鳥居。しめ縄の黄。それにはさんだ紙垂(しで)の白さが目にしみるようだ。このあたり、野生のシャクナゲが見える。