| 三日市駅周辺 |
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| 三日市宿 |
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三日市の古い家なみで、宿場の面影をとどめているのは、4ヶ所ほどあった。早く絵にしておかねばと思っているうちに、三日市橋のたもとあたりと、そして最近、駅前がモダンな建物に新設されて、惜しいことに、時期を失してしまった。この絵は高野口橋のたもとから、北を振り返ってスケッチしたもの。高野山女人道へ八里の道標が、何かの”時”の象徴のように、安政の昔から立っている。 |
| 諸瀬山太子寺 |
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三日市駅から南西へ50mほどのところ、今は人家に囲まれて「諸瀬のお大師さん」。裏手に大きな法篋院塔があって、その横に西向きの小さな祠があり、石地蔵さんを祀っている。祠の台石は井戸側を代用したようだ。お大師さんには昔、霊験あらたかな井戸水が湧き、三日市宿の遊女たちもこの霊水をいただいて病気を治したと語り伝えられている。台石はあるいはその井戸側ではないかと勝手な解釈をしてみた。最近本堂は町内の人々のお世話で復興した。 |
| 片添観音堂 |
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きしる水車小屋の横手、細い坂道を上っていくと、荒れ果てた民家風の、無住のお堂がある。草むした石垣には、椿が芽生え、やがて実をつけるほどに成長している。石仏が二体、堂守のように並んで、上ってくる人を見下ろしておられるが、これだけがかろうじて、お寺の面影をとどめている。(今では懐かしい水車小屋がなくなった。) |
| 月輪寺(三日市) |
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薬師さんといったほうがわかりやすい。手前の祠には、戎さんがおまつりしてある。中央のモチの大木は赤い実をいっぱいつけて、こぼれそうだ。中央のくっついた庫裡の障子に、晩秋の陽ざしが映えて、今日は風が冷たいが、寒さを多少和らげてくれる。魔法瓶のお茶が、そろそろありがたく思える季節である。 |
| 真教寺 |
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旧高野街道を上田からくだって、三日市へ大きく右へ曲がるところ、つきあたりに、真教寺のこの古い門だけが残っている。寺の建物は跡形もなく、あれはてた境内に、石塔や瓦礫が草むしている。南海高野線がこの裏手、寺域を横切って、せまくるしいところをゴーと走る。背景の松山は、古墳群のあった大師山で、このあたり、今は住宅に開発された。何か、時の流れの写り変わりに、あわれを感じる。 |
| 増福寺(上田町) |
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秋祭りも近づいた。地車整備に、ひきだしたついでに、地車小屋を改築するとかで、庭いっぱいに、大工さんが木取りをしていた。お堂の鬼瓦に結びつけたテレビアンテナ。軒の洗濯物。お陰でお地蔵さんと、このお堂には大きすぎる観音様のお二方は、逆に居候にでもなられた感じで、苦笑しておられるようだ。
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| 烏帽子形神社 |
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喜多町にある烏帽子形山は、その山容が烏帽子に似ている。楠木正成の河内七城のひとつで、山城特有の土塁や空濠が残り、「楠公武威松」の碑も面白い。極彩色の美しい本殿は重文の指定を受けた。よく観察すると境内には神仏混合期の宮寺の名残もうかがわれる。さらに文献によると、300年前のこのあたり南河内のキリシタンの本拠であったというのも不思議だ。とにかく歴史の多い山である。鎮守の森は暗く茂って神々しいが、麓を通る旧高野街道は明るく、今日も下校中の児童たちが帰っていく。 |
| 大日寺(喜多町) |
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この寺は、古い高野街道に沿っていた。西条橋を渡り、坂をのぼり、烏帽子城の下を、三日市へと出るこの街道も、鉄道と国道で寸断されて、今では通る人もまばらだが、私はこの道を歩くのが好きだ。特に柿の色つく頃がよい。いつかキリシタン研究かを案内したとおりに、ローマ字で発刊された古い記録に、烏帽子の付近に、立派な教会があったと見えているが、多分このあたりに違いないとか、聞かされた。(その後、この寺は建て替えられた。) |
| 胸切坂 |
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高野街道は、上田町で左へとって、三日市宿場をまわるが、まっすぐ行くとこの胸切坂を下り、片添町で合流する。胸切地蔵は、昔この坂の中程にあったという。ここには悲しい物語がある。泉州堺から紀州橋本へ嫁ぐ花嫁の行列が、この坂にさしかかったとき、息せき切ってやってきた橋本からの、花婿の急死を告げ、引き返してくれという。行列は驚き乱れる。そのとき、駕篭から悲鳴が聞こえて、花嫁は懐剣で胸をついて自害したのである。二夫にまみえずという貞女の鑑だという。私は坂の中腹から上方をむいて写生をした。この坂を上り詰めた左手に、胸切地蔵がある。 |
| 阿弥陀寺跡(小塩) |
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小塩の村落は、東向きの小高い丘に階段状に立ち並んでいるが、上り詰めたところ、広場があって、大きな法篋院塔と、崩れた石材だけが、かっての阿弥陀寺を物語っている。年の瀬の柔らかな陽ざしが、崩れ落ちそうな土塀を暖かく包み、取り残された柿が、透き通るように紅く、今にも落ちそう。逆光に目映いばかりの白雲が、ゆっくりと流れていく。(今では、絵の農家は立て替えらて新しくなった。) |
| 楠公通学橋 |
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大楠公正成が幼少の頃、歓心寺で滝覚坊に学を修め、加賀田に隠栖する大江時親に兵法を学ぶため、三味谷(さんまいだに)を下って、三里のこの山道を通ったといわれる。旧道は曲がりくねっているが、自動車道に改修するにあたり、南海高野線をまたぐ橋が新設され、この名をつけたという。道しるべをかねた野仏に、村人たちがお堂を献じた。横手の柿はお供えのそれか、誰も手をつけないようだ。 |