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高向・日野方面 画面をクリックすると絵が大きくなります。
旗倉山
 河内長野の平坦部から、ぐるっと取り巻く山々を眺めるとき、手近なところに、ひときわ大きく見えるのが旗倉山(あたくらやま)だ。河内にも大和棟の民家は多い。大和のそれとは多少変形はしているが、農家の格式を示すものだ。が、改築されるごとに、年々減っていくのが寂しい。葛城山系を背景に、ここ上原(うわはら)地区に、ずらり並んだ景観もおそらくこれが最後のもとなるのではないだろうか。
塚穴古墳
 堺の旧制中学に通うのに、駅まで自転車で、ここを走ったわけだが、今も昔も変わらない風景がうれしい。そのころ、西国巡礼のお遍路さんが、ここで一休みしていたし、時にはこの横穴で野宿するのか、食事の支度をする姿もよく見かけたものだ。昔、ここで行き倒れた母娘巡礼の悲しい物語を秘めた野仏に、里人たちの優しい心遣いの供物が、今も絶えない。
高向神社
神社は高向上村にあり、昼なお暗い鬱蒼たる鎮守の森である。石灯籠の多いことにまず驚く。さらには拝殿の絵馬は見事なものであった。私は軒先を借りて写生をしながら、お弁当を開き魔法瓶のお茶で体を温める。森が深いだけにもう寒さが身にしみる。地車と日野の獅子舞で沸き返った10月の秋祭りも過ぎて、静まりかえった境内の日だまりは、子どもたちの格好の遊び場であった。
総持寺池(そうじんいけ)
 高向中村の東側は、崖下に広い耕地があって、ここに灌漑用の池がある。大きくないが自然のままの土堤で、水際には黄一色のアヤメが群生し、昔ながらの田園風景が残されている。中世、ここに総持寺があった。江戸時代、高向が旗本甲斐荘氏の知行地となったので、その一子の墓碑が残存している。明治の学制発布で、この地に小学校が建った。後に小学校は上村の現在地に建物ごと移転したが、その建物も戦後の改築の際、取り壊された。古い歴史を秘めた池ではある。
農家と土蔵
 高向中村の東の崖下斜面に、大きな農家がある。このあたりの地主の屋敷である。丁度、そうじん池のすぐ北側に当たる。土塀を巡らし、門屋、納屋、土蔵二棟、母屋は大きな大和棟である。母屋に白壁が残っているが、他はすべて赤土の荒壁。永年の風雨に絶えたその壁も傷みがひどく、腰板も苔むして朽ちてきた。母屋の茅屋根もとうとうトタンがかぶせられた。寄る年波には争えないが、けなげに威厳を保っている。何とか永く保存してほしいと切望する。
野間里の農家
 高向三郷は高向川の西の台地に密集しているが、川の側に野間里、上久保の小さい集落が二つある。一般の人は滅多に通らない。図の屋敷はこのあたりの地主さんで、重厚な大和棟の母屋を中心に土蔵と門を構え、土塀を囲ませた大きな屋敷である。塀越しに見える庭木もいずれも年寄りて歴史の重みを感じさせる。中でも裏口にある榎木の大木は見事なもので、遠くから望見できる。この屋敷の前の三叉路に野仏の祠があるが、最近までここに大きな笠松が一本、道しるべのように建っていた。榎木と好一対であったが、松食い虫にやられて今はない。
野間里の金刀比羅宮
野間里の大きな家の裏手の野道をたどると、東の山手の中腹に金比羅さんが祀られている。野面石を並べた美しい永い石段を登ると、狛犬に守られた小さな社がある。左手少し上方にも祠が見える。この境内の石積みは、氏子たちが下を流れる高向川から石を拾い上げて、年代をかけて丹念に積み上げたものであろう。毎年4月の春祭りには、各戸はお弁当を作り、総出で一日を楽しむのである。当日は、相撲があって村の若者が力を競ったのであるが、今はなくなった。餅捲きだけが賑やかに行われる。
勝負裁不動尊
 日野から加塩(加賀田)へ抜ける道は、昔は全くの淋しい山道であったが、住宅開発や滝畑ダムから取水する浄水場の造成などで、山あいにはトンネルができ、大きな橋が架けられ風景が一変した。ちょうどその下、小井関川の渓流をしたに見て、お不動さんを祀るお寺ができた。日野の村民の信仰が厚い。寺の裏山には、ヤマユリなどの山草がたくさんあって、供花に事欠かないと住職の話。深い谷間に下りて、渓流を遡ると、行場の滝に突き当たる。夏でも肌寒く、霊気を感じる。
観音寺(日野)
 本尊の重文大日如来像は、このお堂の割にはあまり大きすぎる。昔は、大きな建物がこのあたりに建っていたに違いない。裏手に回ると、絵にあるような建物がだいぶん傷んでいる。縁の下に捨て置かれた鬼瓦を見ると、かなりの年代だ。年老いた尼僧が一人でお仕えしておられる。(このお堂も建て替えられた。)